フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn/1732年-1809年)の『交響曲第45番(告別)』は、1772年に作曲された作品です。, ハイドンの交響曲の中でも、人気の高い作品の一つにあたります。 そして、一人ずつ舞台から去っていきました。, 当時の演奏の最後には、ヴァイオリニスト2人(ハイドン自身とコンサートマスター)だけが残りました。, これは『告別』第4楽章の演奏です。 いかにこの時期に短調の作品が集中しているかがわかります。, 【収録曲】 ホークス、CSの相手はロッテとなる, 2020/11/02 XXIIIb:1)』はいずれも1756年の自筆譜が残っている[13]。, おそらく1757年ごろ、ボヘミアのルカヴィツェ(Dolní Lukavice)に住むカール・モルツィン伯爵(Karl von Morzin)の宮廷楽長の職に就いた(19世紀はじめの伝記作家であるグリージンガーは1759年のこととしたが、現在ではもっと前と考えられている)[14]。ここで最初の交響曲である交響曲第1番が書かれた。また、交響曲第37番の筆写譜には1758年の日付が記されており[15]、これらの曲は1757年ごろに書かれたと考えられる[14]。, この時代にハイドンは約15曲の交響曲、鍵盤楽器のためのソナタや三重奏曲、ディヴェルティメント、協奏曲、弦楽三重奏曲、管楽器のためのパルティータなどを作曲した[14]。, 1760年、マリア・アンナ・ケラー(Maria Anna Keller)と結婚した。これは彼の楽長としての地位を保持することにもなった。ただ結婚生活は幸福ではなく、子供もできなかった。マリア・アンナは1800年に没したが、最後の10年間はほとんど別居状態にあった[16]。彼は長く付き合っていたエステルハージ家お抱えの歌手ルイジャ・ポルツェッリ夫人(Luigia Polzelli)と1人、あるいはもっと多くの子をもうけたのではないかと言われている。, ハイドンがいつまでモルツィン伯爵のもとにいたか不明だが、1760年11月26日の結婚証明書にはまだモルツィン伯爵の楽長と記されているので、それ以降と考えられる[14]。, モルツィン伯は経済的に苦しい状況になり、ハイドンは解雇されてしまったが、すぐに1761年、西部ハンガリー有数の大貴族、エステルハージ家の副楽長という仕事を得た。エステルハージ家の当主パウル・アントンen:Paul II Anton Esterházy(パール・アンタルhu:Esterházy Pál Antal (1711–1762))公はハイドンが雇用されて1年もたたずに没し、ハイドンはその弟のニコラウス公に仕えることになった。当時のエステルハージ家の楽団は全員で14人しかいなかったが(楽長・副楽長を除く)[17]、ハイドンは楽団の拡充につとめるとともに副楽長時代に約26曲の交響曲を作曲した。中でも、三部作(第6番『朝』、第7番『昼』、第8番『夕(晩)』)や第31番『ホルン信号』などはこの時期に作曲された[18]。なお、1763年に父が没し、ハイドンは弟のヨハンを引き取っている。ヨハンはエステルハージ家でテノール歌手をつとめた[19]。, 老齢だった楽長のグレゴール・ヨーゼフ・ヴェルナー(Gregor Joseph Werner)が1766年に死去した後、ハイドンは楽長に昇進した。, エステルハージ家の邸宅はハンガリー西部のアイゼンシュタット(現在はオーストリアのブルゲンラント州の州都)にあったが、ニコラウス公はノイジードル湖近くに豪華なエステルハーザ(Eszterháza、現在はハンガリーのフェルテード(英語版))を建設し、1760年代後半から冬を除く1年の大部分をここで過ごすようになった[20]。ハイドンを含む楽員もそれに合わせてエステルハーザに住む必要があった。エステルハーザにはオペラ劇場とマリオネット劇場が落成したが、オペラ歌手との契約や新作の作曲、マリオネット劇ほかの劇音楽の作曲もハイドンの仕事だった[21]。, 彼は30年近くもの間エステルハージ家で働き、数多くの作品を作曲した。1760年代後半から1770年代はじめにかけて、ハイドンは短調を多用し、実験的ともいえる多彩な技法を駆使する一時期があり、20世紀はじめの音楽学者ヴィゼヴァ(Téodor de Wyzewa)は1772年にハイドンの「(ロマン的)危機」があったと考えた[22]。後に時期を広げて1768年から1773年頃をハイドンの「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)」期と呼ぶようになった[23]。交響曲第26番、第35番、第38番『こだま(エコー)』~第52番(第40番を除く)、第58番、第59番『火事』、第65番や、作品9、17、20の弦楽四重奏曲(中でも作品20の『太陽四重奏曲』は短調の曲を2曲含み、最終楽章にフーガを用いるなど対位法的に複雑な性質を持つ)、ピアノソナタ第20番(ランドン版では第33番)などがこの時代に属する。1770年代後半になるとより簡明な作風に変化した。, 1780年ごろにはエステルハージ家の外でもハイドンの人気は上がり、徐々にエステルハージ家以外のために書いた曲の比率が増していった。この時期には『ロシア四重奏曲 作品33』(1781年)、『チェロ協奏曲第2番 作品101』(1783年)、『ピアノ協奏曲 ニ長調(Hob. まず、ソナタアルバムでは、ソナタの音楽的構造を理解するための教材です。 ハイドン、モーツァルト、ベートーベンのそれぞれで 作曲家の特徴や、意図など分析して、ソナタの形式をどのように活用しているかを知ること… などが目的です。 ハイドンのピアノソナタ Hob.XVI:26 第3楽章です。 エステルハージ侯ニコラウスに献呈された6曲から成る作品13のピアノソナタのうちの一つです。 ハイドンが作曲したピアノソナタは、疑問視や偽作、消失作も含めれば、全65曲存在します。 ハイドン:交響曲第45番嬰へ短調『告別』 VIIa:1)』は紛失しており、さらに偽作(, 原曲は管弦楽曲(Hob.XX:1A)だが、オラトリオ版のほかにもハイドン自身による弦楽四重奏曲版(Hob. この呼び名からイメージできるように、この時代のハイドンの作品は感情表現が豊かな作品が多く作られています。, そんな中、ハイドンはこの時期に短調の交響曲を6曲も書いています。 松下 寛 XXII:3 (1748), ミサ曲第4番 ニ短調『スント・ボナ・ミクタス・マリス(Sunt bona mixta malis)』(断片) Hob. ll:47, C major(Toy Symphony, Sinfonia Berchtoldensis), ハイドンの鍵盤楽器のための協奏曲は元々はオルガン用またはチェンバロ協奏曲が大半だが、『, 現在のところ、『ヴァイオリン協奏曲第2番 ニ長調(Hob. 自分の演奏を終えた団員は、譜面台の明かり(ロウソク)を消します。 ハイドンのピアノソナタはソナチネアルバムやソナタアルバムに掲載されており、その中では第35番ハ長調 作品30-1 Hob. 1773年に作曲され、エステルハージ侯ニコラウスに献呈された6曲から成る作品13のピアノ・ソナタの6曲目で、全3楽章から成る。 第3楽章のフィナーレはプレストの4分の2拍子で、イ長調による。前の楽章に引き続き、全26小節の非常に簡潔な楽章となっている。3部形式で書かれており、中間部(第9小節~)では属調にあたるホ長調に転調する。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より, オーストリアの作曲家。古典派を代表するオーストリアの作曲家。たくさんの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。弦楽四重奏曲第77番第2楽章にも用いられた皇帝讃歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」の旋律は、現在ドイツの国歌として用いられている。, 日本のピアニスト。北鎌倉女子学園高等学校を卒業後、ロシア国立モスクワ音楽院へ留学。ピティナ・ピアノコンペティションB級奨励賞、D級銅賞、G級金賞(東京都知事賞、讀賣新聞社賞、ヒノキ賞、王子賞、洗足学園前田賞など各賞受賞)、特級グランプリ・聴衆賞受賞(文部科学大臣賞、讀賣新聞社賞、ミキモト賞、王子賞、三菱鉛筆賞など各賞受賞)。国内はもとより海外での演奏会も多く、これまでに、ロシア、フランス、ドイツ、イタリア、日本各地でリサイタルや室内楽などの演奏活動を行う。また、国内外の管弦楽団と共演。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より. XX:1C)が残されている。, Revues étrangères - A propos du centenaire de la mort de Joseph Haydn, http://www.visitingvienna.com/footsteps/haydns-house-haydnhaus/, http://www.haydn-institut.de/index.php/gesamtausgabe, Folksong Arrangements by Haydn and Beethoven, Complete recording of Joseph Haydns Pianosonatas on a sampled Walther Pianoforte, Complete recording of Joseph Haydns Pianosonatas on a sampled Steinwy D, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=フランツ・ヨーゼフ・ハイドン&oldid=80265661, カンタータ『カペルマイスターの選出』Hob. IV:1~4)』は『ロンドントリオ』の名で親しまれている。, 音楽時計は既存の作品の編曲のものが多い。現存する作品は少なく、約31曲以上作曲したと考えられている。, ピアノソナタは約65曲作曲したと考えられている。ソナタアルバムに掲載されている作品はよく知られる。, ロンドン滞在中に、ハイドンは、ウィリアム・ネイピアがスコットランド民謡集の売れ行き不振で危機に陥っていると知って、彼を援助するためにスコットランド民謡の編曲を行い、1792年に出版した[50]。これが好評だったため、最晩年まで次々に編曲を行った。その多くはジョージ・トムソンからの依頼によるもので、トムソンはほかにプレイエルやベートーヴェンにも編曲を依頼している。, ハイドンの最初の編曲はバイオリンと数字つきバスの伴奏によるものであったが、後のものにはチェロが加わっている。ハイドンによる編曲は2005年に429曲のリストが作られ、その全貌がようやく明かになった[51]。ただし、ハイドン自身でなく門人に編曲させたものもまじっているという[52]。, ハイドン没後100周年に当たる1909年、フランスの音楽雑誌「レヴュー・ミュジカル」がハイドン特集を企画し、その付録としてハイドンの名より導かれた「シラレレソ」という音列に沿った主題にそった小品を依頼した。サン=サーンスなど断った人物もいたが、結局、以下の6人のフランス人作曲家が応じた。, 特にラヴェルの作品は、「シラレレソ」という音列を原形だけでなく逆行したり楽譜を反転して巧みに活かしながら作曲している。詳しくはハイドンの名によるメヌエットの記事を参照。, 現在、オイレンブルク、ペーテルス、プライトコップといった代表的な権威ある出版社の版に限っても、それぞれにかなりの異同が認められる。後世の筆耕者による読み間違い、ハイドンの意向に必ずしも忠実に沿ったものではない第三者による楽譜自体への勝手な改変、改作、音楽記号の改変などを含んでいる。, ヨーゼフ・ハイドンの交響曲として出版されている。Kindersymphonie, Hob. 当時楽長だったヴェルナーの死によって、ハイドンは副楽長から楽長に昇進したのです。, 日本では「疾風怒濤」と訳されていますが、それぞれのドイツ語の意味は「Sturm=嵐」「und=英語のand」「Drang=衝動」という意味です。 3曲ともにハイドンのシュトゥルム・ウント・ドラング期の交響曲で、繊細で軽快なハイドンの音楽が印象的です。. XXIVa:11(真作性は立証されず), ミサ曲第1番 ト長調『ロラーテ・ミサ』(消失) Hob. 『告別』は、その時期の最後の交響曲ではないかとも考えられています。, この創作期の始まる1766年は、ハイドンがエステルハージ家の楽長に就任した年でした。 ソナタはイタリア語の「ソナーレ」(「奏でる」の意)から来た言葉です。 ソナタと対をなす言葉として、「カンタータ」があります。カンタータは、「声楽曲」を意味する言葉です。 一方で、ソナタはもともと、カンタータと対をなして、単に「器楽曲」を指す言葉でした。 そして、バロック後期になると、「教会ソナタ」「室内ソナタ」といった形式が生まれます。 「教会ソナタ」は舞曲を含まない緩・急・緩・急の4楽章構成から成ります。室内ソナタと比べてポリフォニック(多声)な書法と荘重な表 … メンデルスゾーン 交響曲第3番イ短調作品56「スコットランド」, 続きを読む:モーツァルト Ob、Cl、Hr、Fgと管弦楽のための協奏交響曲 変ホ長調、K.297b. フランツ・ヨーゼフ・ハイドン (Franz Joseph Haydn/1732年-1809年)の 『交響曲第45番(告別)』 は、1772年に作曲された作品です。. 様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。, 東大法学部卒、ペンシルベニア大学経営学修士。31年のサラリーマン生活を経て2010年にソナー・アドバイザーズ(株)を設立。現在に至る。, 2020/11/15 クラシック音楽「名曲」の解説と名盤(Musica Classica) All Rights Reserved. が一般的に使われる。この番号はジャンルによって I から XXXI までに分け、その中をおおむね作曲時代順に通し番号をつけているが、現在知られる作曲順とは必ずしも一致しない。ピアノソナタではホーボーケン番号のほかにランドン版の番号も使われており、両者を混同しやすい。ほかに分野によっては作品番号(Op.)がつけられていることもある。, 作品の総数は膨大な数に及び、これらをひとつにまとめることは困難であるため、以下を参照されたい。ただし、研究者によりその結論は一定でないことを参考にされたい。, 106曲(第1番から第104番『ロンドン』までと交響曲A(第107番)、交響曲B(第108番))。ほかに断片が1曲と、協奏交響曲(第105番)がある。かつてハイドン作とされていた『おもちゃの交響曲』[44]はハイドンの作品ではなく、現在ではエドムント・アンゲラーの作とされている。, ハイドンの交響曲は、今日では全曲ではないにせよポピュラーな存在であるが、20世紀前半までは後期作品がたまに演奏される程度であり、アルトゥーロ・トスカニーニが第101番『時計』を2回もレコーディングしたこと自体が驚かれるほどであったという。1960年代半ばにオーストリアの指揮者エルンスト・メルツェンドルファーがウィーン室内管弦楽団を振って全曲を録音したが、米マイナーレーベル(Musical Heritage Society、LP49枚)からの発売だったためあまり注目されなかった[45]。その後、68年から72年にかけてアンタル・ドラティが大手の英デッカレーベルで全集(LP46枚)を完成させたことにより、ハイドンの交響曲に対する認知度が上がった[46]。今日、ハイドンの交響曲は古楽器演奏のレパートリーとして重視されるようになっている。, ハイドンには多くの協奏曲があり、チェロ、トランペット、ピアノ[47]協奏曲などがよく演奏されるが、ヴァイオリン協奏曲は演奏の機会は多くない[48]。バリトンやリラ・オルガニザータのような珍しい楽器のためにも協奏曲を書いている。また、偽作や真偽不明の作品もかなり多い。, ハイドンは多くのオペラを作曲したが、ほとんどがエステルハージ家のためのもので、後世演奏される機会は少ない。『哲学者の魂、またはオルフェオとエウリディーチェ』だけはロンドン旅行のために書いたものだが、実際に演奏されることはなかった。, 人形歌劇(マリオネット・オペラ)は生涯で7曲作曲したが、現存するものは非常に少なく、大半は消失した。, ジングシュピールは9曲しか残されていない。そのうちの3曲は消失し、あとの1曲は真偽未確定となっている。, 7曲しか残っていない劇付随音楽については、5曲が消失し、うち1曲は劇の原題が不明となっている。また原作の台本が紛失、散逸していることから今後、完全にハイドン作曲時の原型を知る機会は少ないと思われる。, アントニー・ヴァン・ホーボーケンによって、83曲がハイドンの弦楽四重奏曲として作曲順の番号(ホーボーケン番号)が付されたが、その中には後に偽作と判明したもの(作品3の6曲)や、他の曲種からの編曲(作品51など9曲)が含まれるため、それらを除くとハイドンのオリジナルの弦楽四重奏曲の数は68曲となる。, 日本では、付された作曲順の番号はそれまで慣習的に使われてきたため、除かれた番号を欠番としてそのまま使われていることも多いが、近年は偽作や編曲作品を除いた番号で表記されることも多くなってきている。, ピアノ三重奏曲は約41曲以上作曲したと言われている。そのうち2曲のみが疑作となっている。, エステルハージ公がバリトン奏者であったため、ハイドンは約126曲ものバリトン三重奏曲を残している。現在バリトンという楽器は非常に珍しいため演奏される機会は少ない。しかし近年になって、これらの作品が全集として出されている(エステルハージ・アンサンブルによる)。, 1794年に書かれた『2本のフルートとチェロのための三重奏曲(Hob. そして翌日には休暇が与えられ、団員たちは家族の元に帰ることができたそうです。, ちなみにハイドンにおける1766年~1773年頃までの創作期は、「Sturm und Drang(シュトゥルム・ウント・ドラング)の時代」と呼ばれています。 ハイドン:交響曲第44番ホ短調『悲しみ』 侯爵はそこで夏季休暇を過ごし、ハイドン率いる楽団もそれに同行します。, しかし、ハイドンなどの一部の役付きの人を除いて、楽団たちは家族を連れていくことはできませんでした。 古典派(18世紀中頃)といえば今から270年ほど前の世界です。バロック後期からはじまったクラシック音楽は古典派になって現代に馴染みのある様式へと進化を遂げていきます。 古典派とは 貴族が権力 … モーツァルト Ob、Cl、Hr、Fgと管弦楽のための協奏交響曲 変ホ長調、K.297b, 2020/11/10 それが真理に最も近い、だから美しくて当然なのだという、これは美の基本原理である。音楽だって絵画だって料理だって、美と名のつくものはみんなおんなじだ。, ハイドンはその「短い解答」を思い出させる。J.S.バッハの音楽が神の手を思わせるものなら、もうすこし人間の息吹を感じるものだ。人が手で書いた見事な答案。, バッハが音で数学をすることはあっても戯れ事をすることはない。ハイドンは数学はしないがユーモア(humour)のかたまりだ。人間(human)の仕業にして無駄がない。だから満点の数学答案である。, といって、なんら小難しい音楽ではない。彼はエステルハージ家の楽長というサラリーマンであり、ご主人様をエンターテインするのが仕事だ。その目的にかなうべく100%合理的な答案を104個も書いたということである。, 音楽は音によるプレゼンテーションである。それを音声と文字ですればビジネスや学問のプレゼンである。メディアが違うだけで形式論理は応用が効く。プレゼンがうまくなりたければ、ハイドンの交響曲に最高の知性によるヒントがつまっている。, 簡単だ。速い2つのソナタ楽章に緩徐楽章とメヌエットをはさむマクロ構造、ソナタ楽章のソナタ形式がミクロ構造という2層の骨格を形成するDNAをもっており、この骨格が交響曲というフォーマットを定義するようになった。交響曲の父とされるゆえんである。, そのDNAを保ちつつ進化するためにソナタ形式より中間楽章が変形する傾向がある。ベートーベンがメヌエットをスケルツォに入れ替え、さらにワルツや行進曲も現れる。アンコがかわっても皮が残ればまんじゅうはまんじゅうという主張だ。, しかし同時に皮とアンコの素材がリッチになってくる。オーケストラが肥大化するのだ。オペラハウスでそれをしたワーグナーの流儀が交響曲に入る。ブルックナーとマーラーがそれの代表だ。そしてそれに反抗したのがブラームスである。, 一般にそれはワーグナー派とアンチの2極対立とされるが皮相的な見方だろう。ブルックナーとマーラーは全然ちがう。ブルックナーは神の啓示を描くのに教会が必要だった。だから彼のオーケストラはオルガンを模したものだ。それに違和感はない。, マーラーは人を、というよりほぼ彼自身に模したドラマをデフォルメしたような音楽を書いた。少なくとも僕にとっては。その劇には大きな、千人もいるような管弦楽と声を要した。「まんじゅうはまんじゅうだ」はいい。しかし僕はこの肥大化にはたえがたい。, skillfulがbeautifulとは限らない。バッハの無伴奏ソナタが千人の交響曲にヴァイオリン1丁だからという理由で劣るわけではない。ファンには大変申し訳ないが、10行の美しくない問題を30行もかけて長々と解いたあんまり賢くない数学の答案用紙を連想してしまうのだ。不純物の混ざった宝石は大きくても安い。, 特に有名なのはあだ名がついている94番(驚愕)、96番(奇跡)、100番(軍隊)、101番(時計)、104番(ロンドン)あたりだ。どれも名曲であるし、クラシック好きでマーラーは知っているがこれらを知らないというのではお話にならない。, これらはみな1791年、つまりモーツァルトが死んだ年より後に書かれた「ザロモン・セット」と呼ばれる93-104番の12曲に含まれる。その12曲がハイドンを代表する看板作品であることを認めたうえで、しかし僕は1785‐6年に完成した82-87番の「パリ・セット」が人気でやや劣後していることをいつも不可思議に思っている。, そして76-78番、90-92番という2つの「トリオ」がモーツァルトの「3大」作曲の動機に関与したかもしれないという関心事についてはさらに飽きることを知らない。つまりモーツァルトの死後の作品群よりも、両巨人の共振があったかもしれない60-92番に僕なりのストライクゾーンがある。, 僕はそれを確信している。たとえば60番「うかつ者」は1774年の作曲で18歳だったモーツァルトに無縁に思えるが、その第3楽章メヌエットのトリオ(ハ短調)に同じ調のピアノ協奏曲第24番K.491の冒頭がきこえて本当にドキッとする。それはWikiにのってもいない78番にもある。, やはりWikiにない75番にもモーツァルトのイディオムをたくさん聴きとることができる。パリとザロモンの狭間にあって、82番以降で最も評価の低いのが89番である。しかしこの曲にはモーツァルトのピアノ協奏曲第25番K.503と血縁関係を感じさせるパッセージが現れる。, それはここに書かなかったが(モーツァルト ピアノ協奏曲第25番ハ長調 K.503)、非常に興味深いことにK.503の作曲は86年、89番は87年であり、これはモーツァルトに由来するという逆の事例かもしれないのだ。同曲の第2楽章にはモーツァルトが偏愛して魔笛を特徴づけるバス進行も現れる。, ご関心あればまだまだ共振を裏付けると思われる例をお示しすることができる。かように60番以降、ザロモン以前というゾーンは興味の尽きない宝の山であり、モーツァルトをそこそこ聞いている方にはぜひ探訪をお薦めしたい。, そこまで関心はないという方も、ザロモン・セットを気に入ったならそれ以前のものも。104曲全部というわけにもいかないから名前がついているものだけでも。特にパリ・セットの82、83、87番は掛け値なしの名曲であり知らずんば人生もったいない。, 最後にひとこと。総じてハイドンの交響曲は愚にもつかないニックネームがつけられており、「熊」だ「校長先生」だとシリアスな聴き手の意欲をそぎかねない名前が並ぶ。ベートーベンの曲に「めんどり」なんてのが現れることは想像もつかないだろう。パリ・セットなどずいぶんそれで損をしていると思う。, しかしそれらはすべて作曲者によるものではない。どうか素晴らしい音楽に虚心に向き合っていただきたい。, ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。, Categories:______クラシック徒然草, ______ハイドン, ______モーツァルト, ______作品について, クラシック音楽, SMCはこれからの人達を応援します。 バレンボイムにとってイギリス室内管弦楽団はとても関係の深いオーケストラなのです。, このCDは、そんな彼らがタッグを組んで70年代に録音したハイドンの交響曲集の一部です。 実際に団員たちが一人ずつ舞台袖に去っていく様子が見れます。, 作品を聴いたニコラウス侯爵は、ハイドンの意図を理解します。 ‚¬‚éB, ‚PŠyÍ‚ªdŒú‚Å“à—e“I‚É‚à”ñí‚ɏ[ŽÀ‚µ‚Ä‚¢‚邪A‹È‘S‘̂̃oƒ‰ƒ“ƒX‚ªˆ«‚¢B, ’ʏí‚̃_EƒJ[ƒ|Œ`Ž®‚Å‚Í‚È‚­AŽå•”‚̍Č»‚Ì‘O‚ÉŽå•”‚Ì•Ï‘t‚ðŽ‚Á‚Ä‚«‚Ä‚¢‚é, —lŽ®“I‚É‚Í‹¦‘t‹È•—‚ȏŠ‚ª‚ ‚éB‚PŠyÍ‚ÌŒo‰ß‹å‚ªˆóÛ“IB, ‘S‘Ì“I‚ÉŒy‰õ‚ȍì•iB‚QŠyÍ‚ÍŠÔ‘t‹È‚Æ‚µ‚Ă̈Ӗ¡‡‚¢‚É‚È‚Á‚Ä‚¢‚éB, ’¿‚µ‚¢’²«‚̋ȁBƒx[ƒg[ƒ”ƒFƒ“‚ðŽv‚¢‹N‚±‚³‚¹‚銴Šo‚ª‚ ‚éB. いわゆる単身赴任です。, ハイドンは、部下たちの「家族に会いたい」という願いを叶えてやりたいと考えます。 Copyright © music-box All Rights reserved. 東 賢太郎 中島 龍之 バロック時代に調性が確立されたことにより、発展していった楽曲形式がソナタ形式です。, 交響曲をはじめ、多くの器楽曲がこの形式で書かれているという意味で、ソナタ形式は古典派音楽を象徴する形式と言えるでしょう。, 本記事では、交響曲など楽曲形式の歴史と共に、ソナタ形式が成立する過程について見ていきます。, ソナタと対をなす言葉として、「カンタータ」があります。カンタータは、「声楽曲」を意味する言葉です。, 一方で、ソナタはもともと、カンタータと対をなして、単に「器楽曲」を指す言葉でした。, そして、バロック後期になると、「教会ソナタ」「室内ソナタ」といった形式が生まれます。, 「教会ソナタ」は舞曲を含まない緩・急・緩・急の4楽章構成から成ります。室内ソナタと比べてポリフォニック(多声)な書法と荘重な表現が特徴で、最初は教会で演奏されていたことからこのように呼ばれました。, 対して、「室内ソナタ」は前奏曲に舞曲が続くという形です。こちらは宮廷や王侯貴族の館で演奏されていたことから、このように呼ばれています。, スカルラッティが数多く書いたチェンバロ・ソナタは二部形式で、単一楽章の形を取っています。, 古典派時代は交響曲(シンフォニー)というジャンルが確立した時代でもあります。交響曲は管弦楽によるソナタと言うことができますね。, オペラの上演の前に演奏されていた序曲(シンフォニア)を、サンマルティーニ(1700頃~1775)が序曲のみを独立して演奏したのが始まりとされています。, また、急・緩・急から成るイタリア風序曲のそれぞれの部分が楽章として独立していきます。, 18世紀ドイツ・マンハイムに宮廷を置いたプファルツ選帝侯テオドール(1724~1799)の宮廷楽団を中心に活躍した音楽家たちを指して、「マンハイム楽派」と言います。, 代表的な音楽家は、フランツ・クサーバー・リヒター(1709~1789)、イグナッツ・ホルツバウアー(1711~1783)、ヨハン・シュターミッツ(1717~1757)やその息子カール・シュターミッツ(1745~1801)、イグナッツ・フランツル(1736~1811)などです。, この時代の大きな特徴として、交響曲を急・緩・急の三楽章構成から四楽章形式に変更し、その第三楽章としてメヌエット・トリオを挿入したことが挙げられます。, また、ソナタ形式の形成や「マンハイム・クレッシェンド」と呼ばれる新たな表現方法など、古典派の音楽へとつながる形式や表現が生まれました。, ハイドン(1732~1809)は交響曲で100曲以上もの作品を残し、「交響曲の父」と呼ばれる人物です。, 長期間にわたって書かれた作品群を辿ると、その変化はまるで交響曲の歴史を見るようです。, 交響曲の確立はハイドン一人で成し遂げたわけではありませんが、現代まで続く交響曲のひな型を作り上げ、それを作品として残したという点で「交響曲の父」という称号はふさわしいでしょう。, また、弦楽四重奏曲のジャンルでも70近くの作品を残しており、「弦楽四重奏の父」とも言われています。このジャンルを事実上創設したと言ってもいいかもしれません。, モーツァルトもハイドンとの出会いで「ハイドン・セット」と呼ばれる弦楽四重奏曲を作曲していますが、弦楽四重奏というジャンルにおいて、ハイドンへの敬意を感じ取ることができます。, ハイドンの場合、弦楽四重奏が発想の根本にあって、そこから交響曲やソナタといったジャンルへと広がっていったと考えられます。, ハイドンがソナタ形式を確立し、モーツァルトやベートーヴェンに受け継がれていきました。, それではここで、確立したソナタ形式の具体的な楽曲形式について確認していきましょう。, 呈示部ではまず主調による第一主題が、そして属調(主調より5度上)あるいは下属調(主調より5度下)で、第一主題とは対照的な第二主題が出てきます。, 展開部では自由な展開が行われ、再現部で再び第一主題が出てきます。続く第二主題は転調せずに同じ調で表れ、終結…という構成です。呈示部と展開部の間には繰り返し記号が入ります。, これは、主題のモチーフを展開部でも使用することで楽曲を有機的に構築するという手法です。, ところが、ベートーヴェンはメヌエットの代わりに、「スケルツォ」を置くようになりました。, スケルツォはイタリア語で「冗談」「気まぐれ」の意味で、特定の拍子や形式を表したものではありません。メヌエットと比較すると、スケルツォはテンポを速く設定してあることが多いです。, また、楽章の冒頭に詩の一節をつけた交響曲第6番「田園」、声楽を持ち込んだ交響曲第9番「合唱付き」など、様々な試みで楽曲の形式に革新をもたらしました。, その後、交響曲は作曲家にとって重要なジャンルと認識され、ブラームス、ブルックナー、さらにマーラー、現代の作曲家へと引き継がれていきます。, ベートーヴェンの「田園」での試みはベルリオースの「幻想交響曲」につながり、さらには文学的、絵画的内容の強い、リストによる単一楽章の「交響詩」が生み出されることとなりました。, ソナタにおいても、調性構造よりも主題の展開のほうに重きを置かれた構成へと変化していきます。, 少しでもお役に立てたのであれば、気軽にシェアしていただけるとうれしいです♪