昭和生まれの筆者にとってはジェームズ・ボンド以外の何者でもない、世界的俳優のショーン・コネリーさんが亡くなった。去る10月31日。享年90。滞在先のバハマで睡眠…(2020年11月8日 12時0分0秒) 丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年 7月17日 - 2006年 9月24日)は、日本の俳優・芸能プロモーター・心霊研究家。 東京府 豊多摩郡 大久保町(現:東京都 新宿区)出身 。 身長175cm。. すると丹波さんが乗っかってしまい、「名前なんてこの際どうでもいい」と言われ、本当は「君は何か僕に聞きたいことが~」なのに、「君の心のなかに、大きなクエスチョンマークがありゃせんか~?」みたいな(笑)。もうノリノリになってしまって、それがOKになって。救った僕の方がドギマギしているんですよ。だから、「下手に柔軟性を生かして相手のミスを救ったりするのはよくないな」と思いました(笑)。, 黒木)恐るべしですね。待っている間もいろいろ仰っていましたからね。本当に楽しかったですね。残念ですが、いまいらっしゃらないけれど、きっと向こうからご覧になっていらっしゃるでしょう。, 1958年8月12日生まれ。福岡県大川市出身。 1980年、ザ・ロッカーズのボーカリストとしてデビュー。 50年以上に渡って俳優として活躍し、生涯に300本を超える映画に出演。俳優養成所を設立し、後進の育成にも力を注いだ。また心霊研究家としても知られ、『丹波哲郎の大霊界』はベストセラーを記録した。(参考文献:ウィキペディア+Amazon.co.jp) 著書 月の巻 ― 本当はもっともっと愉快な人生の延長線』, 『オーラの運命(さだめ)― この世もあの世もバラ色にする黄金法則』丹波哲郎、双葉社、2005年10月、. 丹波哲郎作詞の歌詞一覧ページです。歌詞検索サービス歌ネットに登録されている「丹波哲郎」作詞の歌詞の曲目一覧を掲載しています。元気 健康 一等賞 歌ネットは無料の歌詞検索サービスです。 「塔」「短歌人」に所属する歌詠みでございます。なんのしがらみもない好き勝手、言いたい放題のブログですので、皆様ご愛読のほどよろしくお願いいたします。, №3707 「塔」八月号・陽の当たらない名歌選その1 by 藤村悠 (11/10), №3707 「塔」八月号・陽の当たらない名歌選その1 by ひでお (10/12), №3707 「塔」八月号・陽の当たらない名歌選その1 by 田中正嗣 (08/30), №3707 「塔」八月号・陽の当たらない名歌選その1 by ひでお (08/29), №3707 「塔」八月号・陽の当たらない名歌選その1 by 田中正嗣 (08/25), №3631 「塔」三月号陽の当たらない名歌選1~人生の平穏はどこにもない~ by 田仲亮全 (08/20), №3631 「塔」三月号陽の当たらない名歌選1~人生の平穏はどこにもない~ by 田中正嗣 (08/15), №3631 「塔」三月号陽の当たらない名歌選1~人生の平穏はどこにもない~ by 田中正嗣 (08/12), 最近、あのオーバーアクトと迷台詞の数々と大霊界で知られる丹波哲郎のことが、名優だと思えてきてしまった。彼の代表作は巷間名高い「砂の器」でもトンデモ映画「ノストラダムスの大予言」でもなく、篠田正浩監督による「暗殺」だとここに断言する。新選組の前身を作った清川八郎役を演じている。才能がありながら身分の低さゆえ、ガラスの天井に行く手を阻まれて上に行くことのできない男の鬱屈と葛藤を見事に演じきった。当時の丹波は、台詞の語尾を静かに低めて喋るところにリアリティがあった。それが鬱屈した教養人であった清川八郎という存在を見事に浮き上がらせていた。清川を慕う役の竹脇無我を「甘い」と袈裟掛けに斬るシーンにはぞくぞくするほどの冷たい恍惚を覚えた。深作欣二監督「軍旗はためく下に」における丹波も素晴らしい。銃殺されるその刹那、両脇の二人を引き寄せ、「天皇陛下!」と叫んで殺されてゆくシーンの壮絶さ。天皇陛下万歳ではなく、自分たちをこんな惨めな虫けらの死に貶める天皇陛下への呪詛であったろう。. い意思を感じる猫, 猫の伸びきった寝姿に驚きの声, 上野動物園でゾウの赤ちゃん誕生, 「暖房まだ?」ウサギが無言の圧, 猫によるベッドの間違った使い方, 掃除機は絶対許さない会の姉妹猫, ストーブに「とろける」柴犬たち. 江戸政界の黒幕と対決!純金のカラクリ座敷, http://www.asahi.com/culture/movie/TKY200609250336.html, ファミリーヒストリー 丹波義隆〜父・哲郎の素顔 1000年を超える歴史〜 2015年9月18日(金), 名作ドラマ“至高の最終回”の謎を総直撃!(4)「<1982年4月3日・Gメン’75>若林豪」, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=丹波哲郎&oldid=80413771, 丹波は自ら売り込みをせず、キャスティングされた時点で、演じる役は自分に合う役であるはずなので役作りは一度もしたことがなく、テレビの前の観客は意識せず、目の前に居る監督を喜ばせることのみを考えていると語っていた, 丹波は先輩、後輩、監督からエキストラまで、誰とでも平等に、分け隔てなく接することを徹底していた。丹波は撮影現場では、大俳優、大女優から、仕出し(, 義隆は丹波より「お前は現場に入って監督にどう挨拶するんだ?」と聞かれ、「おはようございます、と言います」と答えたところ、「じゃあ、監督だけじゃなく、エキストラや掃除の人にも、同じように挨拶をしろ」と教えられたという。「えこひいきはダメだ。あと、同じ監督と一緒に仕事をしようと思うな。こびへつらうな」と強く言い聞かされたという, 上述『柳生一族の陰謀』の撮影の時にはちゃんと台本を持って来たが、その台本は郵送で届いたままでまだ未開封の状態だった。同作品の監督の, 台本を読まずに本番に臨むことで知られていた丹波だが、本人は「記憶力はいい」「俺はきちんと頭に入ってるんだよ」「俺は覚える、と自分に自信がある」と言って本番ではスラスラ台詞が出て来ていたと述懐していたが、一方で「終わった途端に忘れちゃう」とも話しており、これを「一種の自己催眠だね」としている。またこのようなことを自ら「面白おかしい伝説的なジョークに近いもの」だとも話している, 仲代達矢によれば、台詞は「1ページ(の台本を)3秒で覚える。長い台詞は、ここで(ページを)めくるというのが頭に入ってる」自分独特の覚え方を話していたが、ある日台詞を間違えた時に「(台本)1枚めくるのを2枚めくっちゃった」と言われたという, 霊界の世界に興味を持ち始めたのは、ある俳優仲間の死であった。ある俳優仲間がガン宣告され、毎日のように「死ぬのが怖い」と連呼していたことから、彼の不安を和らげるために死後の世界について徹底的に調べようと思ったことがきっかけであった, 丹波のマネージャーを務めた東島邦子を「会長」、丹波自身を「先生」または「霊界の宣伝使」、正会員を「天使」として1986年1月に教育団体『来世研究会』を設立。丹波曰く「, しかしその義隆は父について、本当は誰よりも臆病で、死を怖がっていたんじゃないかと思うと話している。丹波の母親が亡くなった時には母の遺体にすがり付いて嗚咽しており、「おめでとう」と言う余裕は無かったという, 大暴れ一心太助!-天下の御意見番 大久保彦左衛門罷り通る- (1990年、日本テレビ) -, 「俺がやらなきゃ」(作詞:東逸平、作曲:植村亨、東芝レコード、1960年12月発売), 『守護霊団 : この世とあの世を結ぶもの』丹波哲郎、広済堂出版、1982年10月(Kosaido books)(新書), 『丹波哲郎の死ぬ瞬間の書』丹波哲郎、広済堂出版、1983年1月(Kosaido books)(新書), 『死後の世界の証明 ― 霊界実存の書』丹波哲郎(広済堂ブックス)(新書)1983年1月、, 『永遠なる霊の世界 - あなたは死んだらこうなる』丹波哲郎、徳間書店、1983年3月、, 『霊人の証明 : 続々丹波哲郎の死者の書』丹波哲郎、中央アート出版、1983年4月、, 『死後の世界の証明 : 霊界実存の書』丹波哲郎、広済堂出版、1984年3月(Kosaido books), 『霊魂不滅の書』丹波哲郎、広済堂出版、1984年7月(Kosaido books), 『稀代の霊能者三田光一 ― 丹波哲郎の霊人の証明 2』丹波哲郎、中央アート出版社、1984年7月、, 『どう生きたらよいか ― 丹波哲郎の人生指南道場』丹波哲郎、経済界、1985年1月(リュウブックス), 『死後の世界 ― 私は霊界を生きてきた』ギャラップJr.(著)、丹波 哲郎(翻訳)、三笠書房、1985年3月、, 『「死にがい」の書 ―"生きがい"があれば"死にがい"もあっていい』丹波哲郎、広済堂出版、1985年5月、, 『催眠術の世界 ― 誰にもできる催眠術入門』(カメブックス(8))(新書)丹波哲郎、土曜美術社、1985年7月、, 『丹波哲郎と四柱推命の世界 ― 運命をあやつる五つの星の神秘』丹波哲郎、かんき出版、1985年9月、, 『新・死者の書 ― 死後の世界は確実に存在する!』丹波哲郎、角川書店、1986年1月(Kadokawa books), 『来世からの証言 ― 丹波哲郎の人生指南道場 II』丹波哲郎、経済界、1986年1月(リュウブックス), 『霊界からの忠告―霊人はあなたの全てを見ている!』丹波哲郎、角川書店、1986年11月(Kadokawa books), 『霊界探訪 ―「近死体験」で私はこう生まれ変わった!』ケネス リング(著)、丹波哲郎(翻訳)三笠書房、1986年11月、, 『大霊界 ― 死んだらどうなる』(大型本)丹波哲郎(著)、近藤 薫(イラスト)、学習研究社、1987年4月、, 『守護霊問答 ― 自分を高め幸せに導く』丹波哲郎、広済堂出版、1987年5月(Kosaido books), 『来世はどうなる ― 天界行きの切符をあなたに』丹波哲郎、来世研究会、広済堂出版、1987年9月(Kosaido books), 『驚異の「大霊界」― 宇宙に充満する霊魂の一人は、あなたです。』丹波哲郎、土屋書店、1988年2月(ムックスペシャル版), 『霊言の書 ― 霊界からの幸せメッセージ』丹波哲郎、広済堂出版、1988年4月(Kosaido books), 『霊界生活の実相 ― 今の生き方で来世の幸福がつかめるか?』(RAISE BOOKS)丹波 哲郎、土屋書店、1988年5月、, 『丹波哲郎の漫画大霊界 ― 愛と真実への旅立ち』丹波哲郎(著)、かきざき和美(作画)、大洋図書、1988年6月、, 『大霊界の真実 ― この真実を知ればもう死は恐くない!』丹波哲郎、角川書店、1988年10月(Kadokawa books)(新書), 『大霊界を見た ― 死後の世界の驚異』丹波哲郎(著)、近藤 薫(イラスト)、学習研究社、1988年12月、, 『小説 大霊界.2 ― 死んだらおどろいた! 1987年に結婚。2人の息子さんの父親。 俳優活動は50年以上で出演した映画は外国映画10本を含んだ300本以上に及ぶ名優 。  公開:2018-08-29 フランス、ベルギー、デンマーク、スウェーデン、チェコ、エストニア、マルタ、ドイツ、ルクセンブルク、ギリシャ、フィンランド、スロバキア、ラトビア、ルーマニア、イタリア、スペイン、オーストリア、ハンガリー、リトアニア、ブルガリア、オランダ, The regulated countries are as follows. 丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年7月17日 - 2006年9月24日)は、日本の俳優・芸能プロモーター・心霊研究家。東京府豊多摩郡大久保町(現:東京都新宿区)出身[1]。身長175cm。, 俳優活動は50年以上で出演した映画は外国映画10本を含んだ300本以上に及ぶ名優[2]。テレビドラマでも活躍し、映画製作にも携わった。オールスターの超大作に相応しい映画では常連の一人として、権力者など上層部の人物役で特別出演もした。丹波プロダクション[注 1]・俳優養成所「丹波道場」を設立して後進の育成も手がけており、宮内洋は丹波の一番弟子である。, 心霊学と霊界の研究もし、多数の書籍を著しており、『丹波哲郎の大霊界』はベストセラーとなった[2]。, 大久保町字百人町(現在の新宿区百人町)にて丹波家の三男として生誕。家柄は系図を遡ると、天平の昔から伝わる薬師の名家で[1]、医学書『医心方』を著した丹波康頼にたどり着く。祖父は東京帝国大学名誉教授の丹波敬三[1]、父は日本画家の丹波緑川、親戚には従弟で音楽学者の丹波明、元大審院院長の林頼三郎らがいる。, 成城中学から陸軍幼年学校を受験するも落第し、仙台の二高を二度受験するも不合格。親戚の林頼三郎が総長を務める中央大学法学部英法科へ無試験で入学したという。在学中に第1回学徒出陣し佐倉歩兵第60連隊に入隊[1]、しかし態度が大きいという理由で普通の3倍程の体罰を受けることもあった[3]。立川陸軍航空整備学校で整備士官としての教育を受け、上官には川上哲治がいた(詳細は#人物を参照)。航空隊に在籍していたために特攻隊員になる可能性もあったが[4]、それにはなることなく終戦を立川で迎え、戦後の1945年大学に復学し[1]、学業の傍らGHQ通訳のアルバイトをしていた[1]、が実際には本人曰く英語は半分程度しか理解できず[5]、トイレに逃げ込み、仕事の終わる時間を待っていたという。1948年大学を卒業[1]。またダグラス・マッカーサーには二度程度エレベーターの中で遭遇したと語っている[6]。, 卒業後は団体(公社)職員となるも俳優を志し[1]、1950年創芸小劇場を主宰後劇団文化座に加入後、1951年春勧誘されていた新東宝に入社[1]。同期には高倉みゆき・中島春雄・広瀬正一がいる。丹波の態度が大きいことが問題とされ[1]、1年以上役が付かないでいたが[1]、1952年に電通傘下DFプロダクション制作新東宝配給のセミドキュメンタリー映画『殺人容疑者』に主演級の役でデビューする。もともとこの役は当時文化座に在籍していた山形勲にオファーがあったものだが、山形が骨折しており応じられないことを丹波が代わりに伝えに行ったところ、プロデューサーから「お前が良い。お前に決めた」と言われ決まったものであった[7]。陰のある二枚目としておもに敵役・悪役で活躍し[2]、1956年公開の柳家金語楼の主演映画『金語楼の兵隊さん』の助演をきっかけに金語楼劇団へ誘われ舞台の客演もこなす多忙な状況だったが[8]1959年、丹波の新東宝の作品のレベルが落ちているとの発言が記事となった、新東宝社長・大蔵貢は謝罪すれば許す考えでいたが[1]、丹波は所信を曲げず、映画『双竜あばれ雲』を最後に同6月新東宝を退社[1]、フリーランスとなり、フジテレビのディレクターだった五社英雄に見いだされるとコンビを組み[1]、1960年に放送されたテレビドラマ『トップ屋』、1961年にはニュー東映で映画『霧と影』、『白昼の無頼漢』に主演した。五社とは盟友となり、1969年の映画『御用金』にも出演している。, 映画『豚と軍艦』(1961年)、『丹下左膳』(1963年)、『暗殺』(1964年)、1963年のテレビ時代劇『三匹の侍』などでスターとしての地位を確固たるものとし[2]、荒くれ者の漁師に扮した『ジャコ万と鉄』や、時代劇映画・ギャング映画・任侠映画など、幅広く出演。早くから海外の映画作品にも出演しており、1961年にはキャロル・ベイカー主演のアメリカ映画『太陽にかける橋(英語版)』に出演。以降はイギリス映画の『第七の暁』(1964年)、そして世界的なヒット作『007は二度死ぬ』(1967年)で国際的に認知され海外においても活躍した[2]。, 1968年から放映されたテレビドラマ『キイハンター』では「黒木哲 也」で主演。黒木のイメージは『007は二度死ぬ』で丹波が演じた、タイガー田中の人物像も反映させている。最盛期の『キイハンター』は視聴率30%を越える人気ドラマとなり、当初1年の予定が5年に延ばされた[9]。『キイハンター』終了後も、丹波は同時間帯でテレビドラマ『アイフル大作戦』『バーディ大作戦』『Gメン'75』と出演して、TBS系土曜21:00の顔となる。, 前後して1973年には映画『人間革命』で毎日映画コンクール男優演技賞受賞。1974年には映画『砂の器』の今西刑事役では、人情味のある重厚な演技が高く評価された[2]。1980年の『二百三高地』で第23回ブルーリボン賞助演男優賞と第4回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞をそれぞれ受賞した。生涯の研究分野であった「死後の世界」を描いた映画を作成・出演し[2]、300万人以上の動員を得る。1994年11月には舞台で「大霊界」を表現し、映像では得ることのできない空間を表現し話題を呼ぶ。, 2000年、『十五才 学校IV』で日刊スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞し、大河ドラマ『利家とまつ』(2002年)、『義経』(2005年)などで、渋みある演技をみせていた[2]。2005年2月から約2か月間、インフルエンザと虫垂炎のために入院し、それが原因でひどくやせ、健康が懸念されていた。, 2006年(平成18年)9月24日午後11時27分、肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。84歳だった。死去する前に霊界はすばらしいところなどと遺言を残した。映画・テレビドラマで何度も共演している千葉真一は「(亡くなる)1年ぐらい前に『キイハンター』をまたやりたいね、と話していた。お元気だったのに……」とTBSの電話インタビューに答え、その死を惜み哀悼の意を表した。第44回ゴールデン・アロー賞の芸能功労賞が贈られ、9月30日に青山葬儀所で行われた告別式には、安部譲二、稲川淳二、映広の岩田廣一社長、京本政樹、黒柳徹子、ケーシー高峰、紺野美沙子、せんだみつお、高井英幸東宝社長、高嶋政伸、谷隼人・松岡きっこ夫妻、司葉子、鶴見辰吾、長門裕之、夏木陽介、西田敏行、原田大二郎、藤田三保子、由美かおるの他、2,000人のファンが参列した。, 棺の中には、「ハードボイルドらしく送り出したい」と喪主を務める長男の丹波義隆の意向で、『キイハンター』、『Gメン'75』で被っていた黒のショートハットを東映東京撮影所から京本政樹が運んできた。「これが似合うのはオレだけだ」と語った丹波の代名詞とも言うべきショートハットが、胸の上に置かれた。通夜の開始では『Gメン'75』のテーマ曲が、告別式では『キイハンター』のテーマ曲や丹波が愛した「赤とんぼ」などの葬送曲が流れた。『Gメン'75』の関谷警部補役・原田大二郎とスペシャルで結城警部補役の京本政樹、『HOTEL』の赤川一平役・高嶋政伸や鶴見辰吾らが、遺族と一緒に出棺した。義隆が「父はあの世とこの世は地続き。電車で隣町に行くようなものといってましたが、いざ、その日を迎えるとはっきり言って寂しいです」「おやじから見たらだらしない息子だと思われるかもしれないが、これから父の言う“電車の乗換駅”に父を見送りに行ってきます」と挨拶すると、弔問客からはすすり泣く声が漏れた。ファンから「丹波哲郎、日本一」「ありがとう!」の絶叫がこだまし、原田大二郎は目を真っ赤にして最敬礼のポーズで見送った。無宗教であり、戒名はない。墓所は多磨霊園[10]。, 2007年7月17日、25年間交友のあった霊能者の稲川りよ子によれば、死後の丹波から、生前の約束通り霊界通信があり、「世のため、人のために尽くし明るい笑顔で人生を頑張ったのちには、それに見合った素晴らしい世界があります」との旨のメッセージが送られて来たという[11][12]。葬儀に参列した江原啓之は、丹波の霊が棺の上に座って、参列者をニコニコしながら眺めているのが見えて、笑いを堪えるのに必死だったなどという逸話もある。, 出演作を多く手がけた中島貞夫は「外見はバタくさいが義理堅い日本の男で、ワンシーンの友情出演だけなのに京都へ来てくれたこともあった。車代を渡そうとしたら『おれはそんなつもりで出たんじゃない』と泣いて怒られた」と語り[2]、石井輝男はもっとも信頼出来る俳優のひとりとして、文句をいわず、ひたすら言われたことを黙々と演じる丹波をいつもほめていた[13]。, 『007は二度死ぬ』の撮影中、毎日遅刻してくる丹波にショーン・コネリーがしびれを切らし、撮影時刻を守る様に注意するため、丹波のホテルの部屋を訪れたが、丹波は「ショーン グッモーニン 主役のショーン自らが迎えに来てくれるんだから、すぐに現場に行かねば、すぐ用意をして行くから、待っていてくれ。」などと得意の調子でやりくるめ、皆が失笑したという[14]。, 裕福な家庭に育ち1949年に結婚した貞子夫人もテーラー(オーダーメイド紳士服店)を営み、自身も公団職と闇市卸副業から社会人演劇同好会を運営し、育ちの良さと素地から不義理、道理の通らない事を嫌い監督など目上立場であっても反目する一方、[注 2]和解すると信頼には誠実をもって答えていた様子が晩年にインタビューから俳優職歴中心にまとめた実質自伝の2004年出版丹波・ダーティ工藤共著『大俳優 丹波哲郎』(ワイズ出版刊)に綴られている。前述した義理友情にまつわるもの、俳優養成所「丹波道場」の経営失敗とは一方で、俳優業経営は厳格で海外出演の経験から映画TVドラマプロデュースについても同様だった。, 息子に俳優の丹波義隆と森正樹。哲郎の妻は北一輝のいとこの娘にあたる[15]。公団職員時代の1949年に結婚。貞子夫人は1958年小児麻痺発症から車椅子生活を余儀なくされたが多忙を極めるなか哲郎が献身介護していた。妻の兄の大蔵敏彦は弁護士で、四大死刑冤罪事件の一つ島田事件で被告人の無罪を勝ち取った人物である[16]。杉並区西荻窪に永住したが、俳優として確固たる地位を築いた矢先、愛人と隠し子がいるとの騒動が勃発。しかし「こんなことはタクシーの運転手さんも知っているよ」とあっさり認めてしまった。葬儀が行われた際、愛人とその子供(元女優の江畑絢子と息子である森正樹)が弔問に訪れた。義隆は気遣って席を外し、二人に別れの一時を与えた。, 『鬼平犯科帳』では舞台化の話が出たが、丹波はこれを断り[33]、『真田太平記』の舞台化の話の際には丹波の方から真田昌幸役での出演を希望したが、鬼平の舞台への出演を断ったため、池波から丹波の出演が拒否されたと話していた[33]。丹波は池波作品の真田昌幸について、「真田昌幸は喜劇的で助平さがにじみ出ている部分が自分に合っていた。」とコメントしていた[17]。『真田太平記』で真田昌幸を演じた丹波について、共演した草刈正雄は、丹波がこの役にかなり入れ上げており、今までにないほど、真剣に役に挑み[34]、長台詞も含めて台詞を完全に覚えていたと語っている[35]。また自分から売り込みをしないことで有名な丹波だが、『真田太平記』のテレビ化の際には、自ら池波に直訴し役を得たとの噂があった、そして丹波は共演にあたり、渡瀬恒彦と草刈に刀をプレゼントしたなどのエピソードを、共演の草刈が明かしている[34]。, DVD『Gメン'75 FOREVER BOX』Vol.1 映像特典「TALK ALIVE」(東映ビデオ), 必殺スペシャル・新春 せんりつ誘拐される、主水どうする?