夏目漱石の葬儀まとめ, 夏目漱石は、1867(慶応3年)2月9日に、江戸の牛込にて代々名主をしていた裕福な家庭の五男・金之助として生まれました。しかし、漱石誕生直後に夏目家が没落してきたことや、母親が高齢出産だったことなどから、幼くして養子に出されては生家に戻ったりと、数奇な運命を辿ることとなります。, 幼い頃は家庭環境の変化で度々転校を繰り返していたようですが、学業に励みほとんどの教科において主席だったようです。中でも英語の成績はずば抜けて優れており、1890(明治23)年に東京帝国大学英文学科に進学後は「方丈記」の英訳にも携わったようです。10代の頃には、その後の漱石にとって文学的にも人間的にも多大な影響を与えることとなる俳人・正岡子規と出会い、友情を深めていきました。, 大学卒業後は、松山の愛媛県尋常中学校や熊本の第五高等学校(現在の熊本大学)の英語教師として赴任し教鞭を執っていました。この頃、お見合い結婚をしています。33歳の頃には、文部省から英文学研修のためイギリス留学を命じられ、渡英します。漱石は元から精神的に不安定なところがありましたが、英文学研究に違和感を感じるようになって以降、神経衰弱に陥り下宿に引きこもるようになります。それを耳にした文部省は漱石に帰国を命じ、3年間の留学生活に幕を閉じます。この留学期間中には、親友の正岡子規が亡くなり、そのことも彼にとっては大きなショックだったようです。, 帰国後には小泉八雲の後任として東京帝国大学の英語教師として再び教壇に立ちますが、堅い内容の講義は学生たちに大変不評で、小泉八雲の留任運動までおこったため、漱石は神経衰弱を再発してしまいます。その頃、正岡子規の遺志を継いだ高浜虚子の勧めで、彼らが出版していた雑誌「ホトトギス」に、処女作である「吾輩は猫である」を執筆します。その後、「倫敦塔(ろんどんとう)」「坊ちゃん」など代表作を立て続けに発表し、作家としての地位を向上させていきました。, 40歳の頃には完全に教職を離れ、朝日新聞社に入社し、本格的に職業作家としての道を歩み始めます。この頃には東京の早稲田に引っ越し、「三四郎」「それから」「こころ」を執筆しました。「漱石山房」と呼ばれた自宅には、毎週木曜日になると若い文学者が集まるようになり、そこから芥川龍之介や菊池寛など多くの著名作家が誕生しました。, 晩年の漱石は、胃潰瘍、神経衰弱、糖尿病、肺結核、痔など、様々な病気と闘っていました。お酒は飲まなかったそうですが、脂っこい食事が好きで、甘いものにも目がなかったようです。中でもピーナッツが大好物で、ピーナッツの食べ過ぎで胃潰瘍になったのではないかと言われています。, 1910(明治43)年、43歳の時には療養生活を送るようになり、翌1911(明治44)年には、療養で訪れていた修善寺温泉では800gほどの大量の血を吐き、生死をさまよう危篤状態になります。いったん容態が回復し東京に戻りますが、その後も漱石は何度も胃潰瘍に苦しむこととなります。, 1916(大正5)年、遺作となる「明暗」を執筆途中に再び胃潰瘍を患い、12月9日には帰らぬ人となりました。漱石はかねてから解剖を希望しており、翌日には遺体が解剖され、死因は胃潰瘍からの大量出血による失血死と診断されています。当時の診断では胃潰瘍とのことでしたが、長く患っていたことから、最近の説では死因は胃がんではないかとも言われております。, 夏目漱石のお通夜は、解剖後に遺体が自宅に戻ってきた12月11日に行われています。白絹の被いがかけられた棺の上には、ケーベル博士の花輪が飾られ、「文献院古道漱石居士」と書かれた位牌が棺の前に置かれました。葬儀は、翌12日に行われました。夏目邸にて午前7時半より読経が始められ、8時半には僧侶・遺族・親族が6輌の馬車に分乗して乗り、漱石の遺体を乗せた柩車とともに青山斎場に向けて出発しました。斎場では、芥川龍之介が受付を担当していました。芥川はその翌年、彼の葬儀の様子を雑誌「新思潮」に「葬儀記」として記し、回想しております。, 柩は斎場に到着後、直ちに祭壇に安置され、その上には「夏目金之助之柩」と記された銘旗が掲げられました。10時半より読経が始まり、朝日新聞社長の弔辞朗読が行われました。次いで友人総代、門生有志の総代が弔詞を捧げ、遺族・親族の焼香が続きました。式は11時くらいに終了し、式後に棺は落合火葬場にて火葬され、お骨は小石川雑司ヶ谷にある夏目家のお墓に埋葬されました。, 今回は、偉大なる文豪・夏目漱石の葬儀をご紹介しました。漱石の人生を紐解いていくと、決して穏やかならぬ半生と病に苦しんだ姿が見えてきますが、それは彼が残した作品にも色濃く反映されているように思えます。その一方で、日本近代文学を語る上でなくてはならない存在として、多くの門下生に慕われ、尊敬される人物であったことは、芥川龍之介が記した「葬儀記」からも垣間見えます。 夏目漱石は作家として大成する以前から神経衰弱であり、精神的に不安定であったと言われています。 漱石20歳の頃に長兄・大助、次兄・栄之助を相継いで亡くし、4年後には三兄・和三郎の妻・登世とも死別しています。 出典:https://www.bungakukan.or.jp 頻繁に「神経衰弱」に悩んだその生涯からも分かるように、夏目漱石の性格は極端に神経質なところがあり、精神的にかなり不安定なところがあったようです。 例えば、1900年から1902年までのイギリス留学中には、「下宿が誰かに監視されている」「イギリス人全員が自分をバカにしている」といった妄想に取り憑かれていたようです。 そして、イギリス留学から帰国した後もその精神の不安 … 夏目漱石の死因はピーナッツ; 歴史/人物 夏目漱石の死因はピーナッツ . 夏目漱石の性格は?どんな人だった? 幼少期の性格「負けず嫌い」 青年期の性格「精神的に不安定で短気」 小説家の時「神経質かつ頑固」 夏目漱石の性格がよく分かるエピソード. 「坊ちゃん」「吾輩は猫である」など数々の名作で知られる文豪・夏目漱石ですが、その性格や死因が意外だと話題です。 今回は夏目漱石の生い立ちや経歴、その意外な性格や子供への暴力の噂、死因、残した名言や作品をまとめました。 夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年 2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者、俳人。 本名は夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏。 明治末期から大正初期にかけて活躍した近代 日本文学の頂点に立つ作家の一人である。 夏目漱石はどんな人? 「坊ちゃん」「吾輩は猫である」など数々の名作で知られる文豪・夏目漱石ですが、その性格や死因が意外だと話題です。, 今回は夏目漱石の生い立ちや経歴、その意外な性格や子供への暴力の噂、死因、残した名言や作品をまとめました。, 夏目漱石は、「大政奉還」が行われた年、明治時代の直前の1867年2月9日(旧暦・慶応3年1月5日)に江戸牛込の馬場下の地に、5男3女の末っ子として誕生しました。, 名前は「金之助」と名付けられました。ちなみに、「漱石」は後に名乗ったペンネームです。, 父は、地域の名主(なぬし・村の代表者)だった夏目小兵衛直克(こへえなおかつ)という有力者でしたが、金之助(漱石)は望まれない子だったようで、生後すぐに里子に出されています。, その後の1868年11月、夏目漱石は、父・直克に仕えていた塩原昌之助という男の下に養子に出され、再び家から出されますが、これも養父・昌之助の離婚により9歳の頃に再び戻されます。, 夏目漱石はその後、戸田学校下等小学第八級、市ヶ谷学校、金華小学校を経て、12歳で東京府第一中学正則科へと進みます。, しかし、同校の正則科では大学予備門の受験に必須だった英語の授業が行われていなかった事や、漢学や文学を学びたいと思った事などを理由に2年ほどで中退しています。, 1881年に漢学私塾二松學舍へと入学し文学を学びますが、長兄の反対にあってこれも1年ほどで中退となります。, それから2年後の1883年、神田駿河台の英学塾成立学舎に入学して英語を本格的に学んで頭角を現し、翌1884年に大学予備門予科(東大予備門・当時最高のエリートコース)に入学します。, 当時の夏目漱石は、ほとんどの教科で主席を取るほど学力優秀で、特に英語に関しては周囲から頭一つ抜きん出ていたそうです。, また、東大予備門時代に、後に生涯通じての親友となる俳人の正岡子規と知り合っています。, この頃、夏目漱石は正岡子規の手がけた文集「七草集」の巻末に、漢文で批評を寄せました。この時初めて「漱石」のペンネームを使ったとされています。, 実はこの「漱石」とは、正岡子規の名乗っていたペンネームの中の1つで、負けず嫌いな変わり者を意味する中国の故事から取ったものでした。, 正岡子規は、少々神経質で偏屈なところのあった親友に、この「漱石」の名を譲ったのだと言われています。, 1890年、夏目漱石は帝国大学英文科に入学、1893年まで英語を学び、卒業後は高等師範学校で英語教師を務めました。, しかしこの頃、精神を病み始めていた漱石は、1895年に高等師範学校教師を辞職。東京から逃げ出すようにして、愛媛県の尋常中学校に英語教師として赴任します。, その後、熊本の第五高等学校などで英語教師を務めたのち、1900年に文部省より英語教育法研究のためのイギリス留学を命じられ、イギリスへと渡海します。, しかし、このイギリス留学は漱石をして「もっとも不愉快の2年なり」と言わしめるほど、苦痛に満ちたものだったようです。, イギリス留学中の夏目漱石の「神経衰弱」ぶりを見た周囲の関係者らは驚き、「夏目発狂」の噂が飛び交うほどになります。, しかし、第一高等学校の生徒・藤村操が夏目漱石から叱責を受けた数日後に投身自殺し、それをきっかけにして漱石の神経衰弱は著しく悪化します。, 1904年の暮れ、漱石の友人で小説家の高浜虚子(たかはまきょし)は、神経衰弱を和らげるためにと漱石に文章を書くことを勧めました。, その勧めを受けて夏目漱石が執筆した文章こそが、漱石が作家となるきっかけとなった名作「吾輩は猫である」の第1話でした。, この「吾輩は猫である」が俳句誌「ホトトギス」に読み切り作品として掲載されると、評判を呼び、続きを書いて欲しいという要望が高まりました。, そして、連載化され、現在刊行されている第11話までの小説「吾輩は猫である」として完成します。, 「吾輩は猫である」の発表後、夏目漱石は「倫敦塔」や「坊ちゃん」などの名作を次々と発表して好評を受け、職業作家になる事を熱望するようになります。, 1907年、夏目漱石は一切の教職を辞して本格的に職業作家として歩み始め、朝日新聞にて「虞美人草」の連載を開始しました。, 1909年には満州鉄道を使っての満州・朝鮮の旅行記「満韓ところどころ」の連載を開始、作家として人気を博しました。, 以降も夏目漱石は作家として活躍し、「三四郎」「それから」「門」の前期三部作や、「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」の後期三部作など、1916年に死去するまで数々の名作を著しました。, 頻繁に「神経衰弱」に悩んだその生涯からも分かるように、夏目漱石の性格は極端に神経質なところがあり、精神的にかなり不安定なところがあったようです。, 例えば、1900年から1902年までのイギリス留学中には、「下宿が誰かに監視されている」「イギリス人全員が自分をバカにしている」といった妄想に取り憑かれていたようです。, そして、イギリス留学から帰国した後もその精神の不安定さは持続し、頻繁に癇癪を起こしては幼い子供や妻に対して暴力をふるうなどして、家族を困惑させました。, 夏目漱石の妻・夏目鏡子さんの述懐をまとめた書籍「漱石の思い出」には、夏目漱石の子供に対して理不尽な暴力を振ったエピソードが紹介されています。, たしか三日めか四日めのことです。長女の筆子が火鉢の向こう側にすわっておりますと、どうしたのか火鉢の平べったいふちの上に五厘銭が一つのせてありました。べつにこれを筆子が持って来たのでもない、またそれをもてあそんでいたのでもありません。ふとそれを見ますと、こいついやな真似をするとか何とかいうと思うと、いきなりぴしゃりとなぐったものです。, 夏目漱石は、当時まだ3歳だった長女の筆子を、理不尽な理由でぴしゃりと殴ったとされています。, この他にも、次男の夏目伸六さんの書いた「父・夏目漱石」には、当時4〜6歳だった伸六さんと長兄・純一さんに対して、夏目漱石が激しい暴力を振るった事が記されています。, この時は、見世物小屋の射的をいつまでも恥ずかしがって撃たない伸六さんと純一さんを夏目漱石が突然激昂して殴り倒し、持っていたステッキで散々に打ち付けたそうです。, 夏目漱石には、こうした異常とも言える行動が目立ったようで、それは性格というよりも、なんらかの精神病を患っていたためだろうとの見方が現在では強まってます。, また、こうした攻撃性は家族以外には向けられず、ほとんどの人間は夏目漱石のそうした性格に気がついていなかったとも言われています。, 現在で言えば典型的なDV夫ですが、妻の鏡子さんはそんな漱石を支えようと決めていたようで、周囲に離婚を勧められた際に以下の言葉を残されています。, 「私が嫌で暴力を振るって離婚したいなら離婚します。けれど、今のあの人は病気だから、私達に暴力を振るうのです。治る甲斐もあるのですから、別れるつもりはありません」, こうした妻や子供らの理解もあって、夏目漱石は数々の名作を残したとも言えるのではないでしょうか。, 夏目漱石はこうした極度の神経衰弱が原因とも言われますが、かなりの偏食家でそれが原因で胃腸を病み、その死因は「胃潰瘍」であったと言われています。, 漱石はその精神的な弱さから、ストレスを解消するために甘いものを大量に食べ、普段の食事も毎晩牛すき鍋を食べ続けるなど、かなり偏った内容でした。, そのため、胃腸に多大な負担がかかって、亡くなるまでの間に5回もの胃潰瘍を患いました。, 1910年には、静養先の伊豆「修善寺」の旅館にて800ccもの大量の血を吐いて倒れ、一時は意識不明の重体に陥ります。これは後に「修善寺の大患」と呼ばれる事になります。, そして、1916年に体内出血を起こして倒れ、自宅で49歳10ヶ月の生涯を閉じます。, 最期の言葉は「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」という錯乱した内容とも、枕元で泣き出した四女の愛子に「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と優しい言葉をかけたとも伝えられています。, 以上のように、波乱に満ちながらも個性溢れる人生を送った夏目漱石は、数々の名言を残しています。ここで夏目漱石の名言を紹介します。, 教え子が「I love you」を「我、君を愛す」と訳したのを見て、「日本人はそんなことは言わない、日本人の感覚なら『月が綺麗ですね』くらいに訳すのが当てはまる」と指摘したそうです。, これは、夏目漱石が作家として駆け出しの頃の芥川龍之介への激励の手紙の中で贈った言葉です。, 当時、周囲から評価されず、自信を喪失していた芥川龍之介は、夏目漱石からの激励の手紙を受け取りました。, 手紙には、温かく力強い文章で、焦らずに自分を信じて前に進みなさいという内容が書かれていました。, これが芥川龍之介にとって大きな分岐点となったとされ、後の大作家・芥川龍之介を生み出すきっかけとなった名言とも言われています。, 自身がモデルとも言われる英語教師・珍野苦沙弥の家に迷い込み、飼われるようになった猫「吾輩」の目線で、珍野苦沙弥の周辺の人間達の生活を風刺的に描いたユーモアに溢れる傑作です。, かなり破天荒なキャラクターを持つ新人教師「坊ちゃん」を主人公に描かれる痛快なエンターテイメント作品で、躍動感溢れる文章からは情景がありありと浮かんでくるように感じられます。, これまでに数え切れないほど映画化、アニメ化、ドラマ化、舞台化、漫画化されている、夏目漱石作品の中で最も大衆人気が高い作品だと言えます。, 登場人物の「赤シャツ」「野だいこ」「マドンナ」など、その独特なネーミングセンスからも夏目漱石ならではの魅力に満ちています。, 1907年に発表された「虞美人草」は、夏目漱石が専業作家となって初めての作品です。, 恋愛をテーマにしていますが、現代の恋愛とは随分と趣が違います。当時の恋愛感覚を知ることができる作品ですが、現代人の感覚では回りくどく感じてしまう事もありそうです。, 一字一句丁寧に書かれた名作で、文章の純粋な美しさがあります。内容についても、当時の風俗をしっかりと理解した上で読めば非常に楽しめる作品でしょう。, 1908年に発表された「三四郎」は、夏目漱石前期3部作の内の1作に数えられる長編小説です。, 東京帝国大学を舞台にした青春小説で、田舎から出てきた新入学生・小川三四郎が都会に出て得る様々な経験や恋愛模様などを通じて成長していく物語です。, 当時の社会を批判的に見る夏目漱石の視点も込められています。日本初の「教養小説」ともされる作品です。, 夏目漱石の波乱に満ちた生い立ちや、神経衰弱や胃潰瘍などの数々の病に悩まされながらも小説家として数々の名作を残したその人生について見てきました。, その人生からは、「千円札の人」といったイメージや「吾輩は猫である」を書いた偉人というイメージとは少し違う、人間臭さに溢れた夏目漱石の姿を知ることができました。, 現在も人々に親しまれる夏目漱石の名作の数々ですが、こうした夏目漱石の人間性を知った上で読めば、また新たな感動を得られるかと思います。, 新渡戸稲造は何した人?大学など功績4つ・死因・名言や子孫も紹介【前の5000円札の人】, インターナショナルスクールへ通う芸能人の子供20選~衝撃順にランキング【2020最新版】, 新井和響の現在!ホットドック早食い・摂食障害の噂・結婚した嫁や子供も総まとめ【フードファイター】, 樋口一葉は何した人?性格や名言・死因・不美人の噂や子孫の有無も紹介【現5000円札の人】, ライス(芸人)の現在と消えた理由5つ!関町知弘と田所仁の結婚や嫁/子供の有無・ネタ動画も総まとめ. 1. 夏目漱石の死因と葬儀内容とは 3. 夏目漱石の死因と葬儀内容とは 彼が残した数々の作品は、これから先の時代にも多くの方の記憶に残るものとなるでしょう。, お坊さんのいないお葬式は、 宗教者を呼ばない新しいカタチの 夏目漱石なつめそうせきは明治末期から大正初期にかけて活躍した日本を代表する小説家の一人だ。, 旧千円札に肖像として描かれていた人物でもあるので顔を覚えている人も多いと思うが、彼の経歴や本名などを知っている人は多くはないだろう。, そこで今回は夏目漱石について私が知っている事、調べた事などを簡潔にまとめて分かりやすく紹介していきたいと思うので、最後まで楽しんで読んでくれたら幸いだ。. 夏目漱石の葬儀まとめ. 2. デビュー作が「我輩は猫である」、こう書いてしまうと今回紹介する人物が誰なのかすでにおわかりになられたと思います。, 夏目漱石、本名・夏目金之助(なつめきんのすけ)は1905年に発表した「我輩は猫である」以降、「坊つちやん」「三四郎」などの作品を立て続けに世に送り出し、余裕派と呼ばれる日本文学の一流派を形成し、後々の作家たちに多大な影響を与えました。, 1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された千円札の肖像画にも採用された夏目漱石を「こころ」などの作品や名言、死因、妻・夏目鏡子(なつめきょうこ)のことを解説しながら夏目漱石の人生に迫りたいと思います。, 1867年2月9日、父・直克(なおかつ、なおよし)母・千枝(ちえ)の間に五男として誕生、しかし幼少期には二度も養子に出されています。, 幼い頃から勉学は出来たようですが、養子に出された関係上、小学校を何度も転校して府立第一中学校に入学後も漢学や文学指向の漱石の希望に兄弟が反対していたため、第一中学校を中退します。, その後は成立学舎、第一高等中学校に学んで1890年創設間もない東京帝国大学(現在の東京大学)英文科に入学、この前後に生涯の友でもっとも漱石が影響を受けた正岡子規(まさおかしき)と出会っています。, 帝国大学の特待生となった漱石は兵役を逃れるために分家して戸主となり(戸主、世帯主は徴兵されない)、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして学費や生活費を稼ぎ、1893年東京帝国大学を卒業、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の英語教師となります。, しかし、日本人に英文学を教えることに疑問を覚え始めたことと、ここ数年続いた長兄、次兄との死別など親族の不幸、自身の肺結核などで極度の神経衰弱となり強迫観念や厭世主義に陥ります。, 1895年、師範学校を辞任した漱石は正岡子規の故郷である松山の愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の英語教師として赴任しました。, 1896年、第五高等学校(現在の熊本大学)の英語教師に転任すると、これを機に貴族院書記官長・中根重一(なかねしげかず)の長女・鏡子(きょうこ)と結婚します。, 1900年、文部省の指示でロンドン留学が決まり、かの地に赴きシェイクスピアの個人教授を受けたり、ディケンズ(大いなる遺産、二都物語など)、メレディス(エゴイストなど)を読み漁りましたが、再び英文学に対する嫌悪感から神経衰弱に陥り、精神病を患ったと勘違いした文部省によって帰国させられました。, 帰国後、第一高等学校と東京帝国大学の講師となり生計を立てますが、教え子とのトラブルなどから精神的に不安的となり、妻とも別居状態へ。, しかし、高浜虚子(たかはまきょし)の薦めで文芸誌「ホトトギス」にて「我輩は猫である」を発表すると、これが評判となり続編を執筆したことによって漱石のなかに作家として大成することを望む気持ちが生まれ「倫敦塔」「坊っちゃん」を相継いで発表、人気作家となっていきました。, 1906年ごろになると、漱石の家には、若き小説家や翻訳家、学者が出入りするようになり、毎週木曜日に漱石との面会を行うようになりました。, 後に「木曜会」と呼ばれたこの集まりの中には芥川龍之介(羅生門、蜘蛛の糸など)がいました。, 1907年、漱石は教職の仕事を全て辞職して朝日新聞社に入社、職業作家として自立し「虞美人草」を発表しますが、神経衰弱は相変わらずでこの頃から胃痛に悩まされ始めます。, 1910年、前期三部作の「三四郎」「それから」の三作目にあたる『門』を執筆中に胃潰瘍で入院、伊豆へ転地療養しますが大量の吐血により一時危篤状態に陥ります。, その後に病状が持ち直すと東京に戻り、再び執筆活動を再開して「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」と後期三部作を世に出します。, 1915年「道草」の連載を開始した頃には糖尿病も患っており、1916年「明暗」執筆途中に体内出血を発症して自宅で死去しました。, 享年49歳、遺体は東京帝国大学医学部解剖室で解剖され、その際に摘出された脳と胃は大学に寄付され、脳は今も大学に保管されています。, わがまま一杯のお嬢様育ちで、朝寝坊はする、家事は不得手、漱石が出掛けるときに朝食を作らないこともしばしばあったと言われています。, その上に慣れない夫婦生活からヒステリー症状をおこし、投身自殺をはかったこともあったそうです(未遂に終わる)。, このため悪妻のイメージが付きまとっているのですが、神経衰弱を患った夏目漱石が鏡子や子供たちに暴力を振るう(ドメスティックバイオレンス)ようになり、周囲から離婚を勧められたときに、「嫌いで振るわれる暴力なら離婚もしますけど、病気によって振るわれる暴力は治るのですから離婚はしません」と言い切り、周囲の声を受け付けませんでした。, 木曜会に集まる才能ある若者に物心両面で援助を惜しまず、漱石との間に2男5女をもうけた彼女が漱石にとって悪女であったとは到底思えないのはわたしだけでしょうか?, 夏目漱石は作家として大成する以前から神経衰弱であり、精神的に不安定であったと言われています。, 漱石20歳の頃に長兄・大助、次兄・栄之助を相継いで亡くし、4年後には三兄・和三郎の妻・登世とも死別しています。, 漱石はこの登世に恋心を抱いており、このショックが漱石の精神に大きなダメージを与え、より深い精神不安にさいなまれたようです。, 帝国大学在学中にもわずかな精神的動揺で神経衰弱や精神疾患を発病し、あげくには肺結核までも患っています。, 長年に及ぶ神経衰弱が胃にストレスを与えて43歳の頃には胃潰瘍で入院、大量の吐血によって危篤状態となります。, この後に体調は持ち直しますが、49歳で亡くなるまでの間、胃潰瘍と神経衰弱に悩まされ晩年には糖尿病までも患い、落命することになりました。, 「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」有名な書き出しで始まるこの小説が文豪・夏目漱石のデビュー作です。, 文明中学校の英語教師・珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)が飼っている淡灰色斑入の雄猫が彼の回りで生活する人間の観察や哲学的思想に浸ったりするのを描写しており、飼い主・苦沙弥は教師で胃が弱くノイローゼ気味、漱石自身をモデルにしていると言われています。, 最終話で主人公の猫がビールを飲み、水かめに落ちて出られなくなり溺死するのはいかにも漱石らしい話の終わらせ方と言える作品です。, 四国の旧制中学校に新卒で赴任することとなった東京の物理学校(現在の東京理科大学)出、血の気が多く無鉄砲な江戸っ子気質の主人公が赴任先で巻き起こす騒動を滑稽な描写で描いた、漱石の作品の中でもっとも多くの人に読まれ愛されている作品です。, 主人公に名前がなく、語り手として使う手法は「我輩は猫である」と同様で、主人公の経歴や舞台設定などの作品背景は、漱石自身の教職時代の経験で描かれているようです。, 一ヶ月あまりのわずかな赴任先での話として描かれており、漱石はわずか10日で書き上げたと伝えられています。, チフスで死んだの親友の妹・三千代に恋心を抱きながら、経済的に安定しない半人前の自身の生活を顧みて、彼女を安定した職業の銀行マンである平岡に委ねます。, しかし、平岡は結局三千代を幸せにすることはできず、その事を後悔した代助は三千代とともに残りの人生をやり直すため、父親に勘当され、友とも絶交、兄弟からも絶縁されてしまいます。, 1909年に執筆された本作は、「三四郎」「門」とともに漱石の前期三部作をなしています。, 先生が毎月訪れる友人の墓、私に語られる謎めいた言葉から推測される先生の過去、それを告白させようとする「私」。, これが先生の遺書だと気づいた私は東京へ戻り、手紙の中で語られる先生の過去から真相を知ることになる。, 明治天皇崩御と乃木希典の殉死に影響を受けた漱石が人間のエゴイズム、倫理観を表現した作品と言われています。, 「彼岸過迄」「行人」とともに漱石の後期三部作をなしており、新潮文庫の単行本は700万部を越える大ベストセラーとなっており、日本でもっとも売れている単行本となっています。, 1889年(明治22年)、漱石の執筆活動に多大な影響を与えた正岡子規と出会います。, 子規が手がけた文集「七草集」の巻末に漢文で漱石が批評を書いたことから交流が始まり、漱石が松山の愛媛県尋常中学校に赴任した時は松山市内の下宿先・愚陀仏庵(ぐだぶつあん)で寝食をともにし、俳句に精進し多くの作品を残しました。, 交流は子規が死去する1902年まで続き、漱石の優れた文才に最初に気づいたのも正岡子規だったようです。, 漱石という号(ペンネーム)は「晋書」の故事「漱石枕流・石に漱(くちすす)ぎ流れに枕す」から取ったもので、最初に漱石の号を使ったのが「七草集」の批評の署名であり、元々漱石というのは正岡子規が使っていたペンネームの1つで、これを譲り受けて使用するようになったのです。, 夏目漱石の身近に存在した人が数多くモデルとなっている小説から、社会的事件や大きな時代背景を持つ作品、人間の奥底に潜む葛藤やエゴを見事に表現した作品と多種多様な作品を世に送り出しました。, 自身が危篤状態になるなど、死に対して独自の見解を認識していたと思われる漱石は、「則天去私・私心を捨て去り、身を自然の摂理にゆだねて生きて行くこと」を理想とし、その心境を作品の中に描いていきました。, 夏目漱石作品の奥深さが一度読んだ程度では味わいきれないのは、漱石の持つ人生観があまりにも壮大すぎるからなのではないかと私自身は思っています。.